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「平和への祈り~久貝清次美術展」浦添市美術館/2001.12.12~12.24

個展案内

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大田昌秀氏メッセージ

アメリカの軍事記者が「醜さの極致、それ以外にどう表現しようもない」と語った沖縄戦の惨禍を身を以て体験して以来、私は、どのような大義名分を掲げようとも、絶対に戦争を繰り返してはならないと自らに誓った。戦争には勝者も敗者もないからだ。「平和の礎」を建て、敵味方の別なく戦没者の名を刻み、沖縄戦の教訓に学ぶ決意の証としたのもそのため。平和は与えられるのでなく各人が創るもの。久貝さんの平和を創り出す限りない熱意と実行力に共感し、敬意を表してやまない一人である。

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PRESS・メディア

展評 与那覇 幹夫氏

痛みの果ての祈り

久貝さんが個展を開くというので、額装屋さんでM25号のアクリル画33点ほどを見せてもらった。一見、ピカソの筆致をおもわせるが、ピカソが複眼的(立体的)であるのに対して、久貝さんの絵は平面的だが、「受画14」などのように重層的で構図はより複雑である。ところが、複雑なはずの構図なのに、絵は(目には見えない)ある存在を、直載に手渡すー。私はそこに、久貝清次という画家の魂を見た。描かれたものは「受画33」を除き、すべて「ある顔」であり、手渡されたものは、愛・生・自由・痛み・孤独・引き裂かれた個の存在、祈りなどだが、直載な手渡しようは、あくまで都会的な婉曲(えんきょく)な物言いではなく、南島的である。
久貝さんは、宮古をたって間もなく、お茶の水美術学院を経て日本橋高島屋のデザイナーとなり、傍ら、東京デザイナー学院の講師を身過ぎの糧にしながら絵を描き留めてきたが、きのうと同じ目線・考えなど、百年古いと言われる知的喧騒(けんそう)の中で、人間的にも画家としても、よくぞ南島的感性を漂泊されず、体内深く宿していたものだと思う。
作品「受画15」が、それを物語っている。赤くぬりつぶされた瞑目(めいもく)する顔の、何とふくよかで温かいことか。もう技巧すら忘れたというかのごとく、無心で、かつ自在である。額から口元にかけて配された黄色は、おそらく燦々(さんさん)と降りそそぐ南島(宮古)の陽射しであろう。それにしても、顔面の赤の色調にはハッとしたが、黄と赤の過不足のない調和は、いま一つの南島的宇宙すら喚起する。そして画面にそよぐたおやかな風は、宇宙のかなたとの交換すら感じさせる。もしそうなら、私はこの個展を、存在の痛みの果てに辿りついた祈りと書き留めておこう。(詩人)
琉球新報 2001年12月12日
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展評 佐籐 善五郎氏

「プロセス」から強い衝撃波

会場の中心に活動の原点となった「プロセス」が置かれ、周辺に「受画」と呼ばれる34点の作品群があった。「プロセス」(1971年)は、同一人物(本人)の丸刈りからひげ面の虎男に変貌(へんぼう)するまでの365日間にわたる記録写真を合成化し、2×8・8㍍の巨大パネルに仕上げたもの。その1枚1枚を連続ショットでつないでムービー化したビデオも上映している。この映像は久貝のアイデアをテレビ局が放映したものだが、わずか1,2分たらずの連続ショットはアニメーションの技法が十分発揮されてトレモロ(震音)のような強い衝撃波を伝達する。365日の微量の変化がハイスピードで連写されることで、見る側にさまざまな出来事を連想させる意外な連鎖装置ともなって新しい生命が吹き込まれるような印象を与える。
プロセスの全写真を縮小して張り付けた34個の大きなウズラの卵に似た物体が置かれている。これは、どんなに偉大なものでも初めは第1歩からという発想による孵化(ふか)現象を表すものらしいが、34という数字は「プロセス」を発表して、初めて画家として自立したときの作者の年齢に由来する。
壁面を飾っているのは、アクリル彩色でM25号の34点におよぶ「受画」である。受画とは、久貝の造語で「1色に塗りつぶした絵の具のかすれを眺めているうちに、自然に見えてくるイマジネーションを祈るように描いた絵」ということになるが、人体のデフォルメや分解作用を通して2重化された像のイメージが、闇(やみ)を突き抜けてあぶり出されたように半具象化されて浮き出してくる。明度の高い色彩が淡い色調で抽出され、その臨海線が太々しい暗黒色でえぐられるようにダイナミックに線画されている。
サブタイトルに「平和への祈り」とあり、大田昌秀前知事のメッセージも添えられているが、昨年46年ぶりに初めて郷里・宮古島へ帰郷した久貝にとって、強い望郷の念とともに戦争拒否の思想を貫く必然性を幼少時において体験していたからである。今後、その体験をもとに新しい作品活動が期待される。(那覇市文化協会事務局長)
沖縄タイムス 2001年12月18日

美術月評 花城 勉氏

2001年の暮れ、その年の世相を表す漢字として「戦」が選ばれ、メディアにとりざたされていた。振り返れば米同時テロ、アフガン空爆、炭疽(たんそ)菌騒動や狂牛病、不況に至るまで枚挙に遑(いとま)がなく、さまざまな場面、環境においても「戦い」「戦う」1年であり、その1字が的確に世相を反映していたといえるだろう。これら避けることの出来ない現実を踏まえながら、今月の沖縄の美術状況をリンクさせてとらえてみると、多くの興味深い展覧会が相次いだ。
「久貝清次美術展」(12/12-24・浦添市美術館)を見る。1971年に制作された「プロセス」という映像作品を取り囲むように34個の卵のオブジェ「平和の孵化(ふか)を願って」が配置される。その映像からは、丸刈りの自身の姿を365日にわたり記録し、最終的にはひげ面の男に変ぼうする過程を映像化したものである。日々の違いの変化を自覚することは困難だが、トータルでの変化は歴然としている。「全ての物事はこんな過程で起きるかもしれない。戦争も平和も」という作家のメッセージが、現在的事象と符合し興味深い。これら展開は、今回の沖縄での個展を皮切りに、今後六年間、長崎、広島、東京、南京、ハワイ、ドイツで展覧会が企画され今後の動向が注目される。
琉球新報 2002年1月9日

金口木舌

大きな変化は気付きやすいが小さな変化は見落としてしまう。浦添市美術館で開かれている画家・久貝清次さんの個展は変化に関心を持つことの大切さを気付かせる▼髪とひげをそったあと、毎日、自分の顔を写真とビデオで記録した。髪やひげは少しずつ伸びているが、日々の違いは判別しにくい。でも1年後の頭髪はライオンのたてがみのよう、ひげは顔を覆いつくして様相は別人。当初との違いは明白だ▼「すべての物事はこんな過程で起きるかもしれない。戦争も平和も。無関心でいると、平和が壊されていくことに気付かないかもしれない」と話す。沖縄での個展には「戦乱に巻き込まれないよう、日々の変化に注意を」との願いが込められた。1936年、平良市に生れ育った久貝さんには沖縄本島のような過酷な戦時体験はない。東京でデザイナーとして活動。昨年、初めて帰省したが、米軍基地から派生する事件・事故など沖縄の状況は常に気になっていたという▼「私は平和運動家ではなく、1人のアーティストにすぎない」と言うが、離れていた年月が長い分、故郷に寄せる思いは強い▼沖縄戦を繰り返し語ることも呼び掛ける。県内ではさほど有名ではない久貝さんの平和へのアピールは小さいかもしれないが、視点は大事に生かしたい。
琉球新報 2001年12月18日

PROCESS

作品PROCESS

左の顔はトラ男。右の顔は坊主。けれどもこれは同一人物の写真である。一年間も無関心でいるとこうなるのである。一日違いでは変化はわからないが一年違いだと変化は明瞭。全ての物事はこんな過程で起きるかも知れない。戦争も平和も。

(定点PRAYER 1970-1971制作)
*1年間365日同じ場所にて撮影した記録

こどもたちへ

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教師たちへ

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人間の住んでいる島、沖縄より。

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人間の住んでいる島、沖縄より。

約130年前までの沖縄は、独立した琉球王国であった。軍事力を持たず隣国の人々と仲良く付き合い、貿易を行って平和な王国を維持していた。
この沖縄に日本政府は「軍隊を常駐させる」と言った。沖縄は「こんな小さな島に軍隊を持ってきたら島を守るどころか、かえって危険な火種になる」と反対した。しかし、日本政府は「どこに軍隊を置くかは政府が決めることであり、住民に拒む権利はない」と派兵を強行した。そして「軍隊の兵舎や射撃場に必要だ」として、首里と那覇の間にある古波蔵に61,600平方メートルの土地を軍用地として強制的に取り上げた。更に、平和な首里城から国王を東京へ連れ去った。琉球処分、1879年、琉球王国の崩壊である。
「琉球の歴史」の著者ジョージ・H・カーは「日本の廃藩置県の1番の目的は、琉球を日本国県内に組み入れて、そこに軍隊を駐留させるためであった」と書いている。
琉球処分の後、日本政府は沖縄には皇民化教育、沖縄県民を日本皇国民として育成するために懸命に努力する。天皇・皇后の写真をいち早く下付したのは沖縄教員養成機関の沖縄師範学校であった。卒業式で歌われるようになる「蛍の光」も琉球処分からわずか三年目で発表された。その3番の結びで「国のためにつくせ」とあり4番の歌詞の1節に「沖縄」を入れて在る。

千島のおくも、おきなわも、
やしまのうちの、まもりなり。
いたらんくにに、いさお しく。
つとめよ わがせ、つつがなく。

「蛍の光」発表1年前に中国の外務大臣は予言した「日本が沖縄を支配したら、次は、台湾、朝鮮、中国へ入って来るだろう」その通り日本は日清、日露戦争をやって台湾をとり、朝鮮をとり、満州をとった。
日本はそれでも足りないと「鬼畜米英」という宣伝をして真珠湾を攻撃した。沖縄では日本防衛の名において多くの住民が住み慣れた土地から強制的に立ち退きさせられ家も屋敷もつぶされて飛行場にされたのである。
沖縄戦に来襲した米軍は540,000人。日本軍は110,000人。大本営は「日本は勝ち目がない」と記録している。それでも戦わせた。住民や非戦闘員を巻き込む形で沖縄戦に米軍をくぎづけにし、その間に本土防衛態勢を整える玉砕戦法がなされ150,000人もの沖縄県民が死んだ。当時の沖縄の人口の3分の1である。米軍の戦死者は12,500人で日本軍は93,900人である。沖縄戦での全死亡者は234,183人である。黙禱。
戦後、沖縄はサンフランシスコ条約で日本国から切り離され27年間も米軍の施政権下に置かれ、日本の平和憲法や安保条約とも無縁であった。この間に米軍は完全武装で土地を取り上げに来た。「土地がなくなると生活できない」と手を合わせお願いする農民を縛り上げ半殺しにして家を焼き払い、畑をつぶして飛行場や演習場にした。沖縄の米軍基地は地主の同意もなく米軍の銃剣とブルドーザーによって強権的に接収され構築されたものである。沖縄で明治時代から今日まで一貫している特色は、強制収用の対象地が、農民の土地だということである。沖縄は日本国土の0.6%の面積しかないが、日本にある米軍基地の75%までが沖縄に集中しているのである。
1972年、沖縄の日本復帰は、日本国平和憲法への復帰であり、本土並みの基地の縮小、人権の回復、自治の確立であったが現在も過密な基地は存在し、基地に起因する事件事故は絶えることなく発生している。復帰から今日まで米兵による犯罪は、4716件以上も起きている。演習の形態も本土と雲泥の差異がある。基地は経済も鈍化させた。戦後の日本経済発展は沖縄の犠牲の上にある。沖縄の経済を健全にするのは国の責任である。
沖縄の米軍基地の実情を本土の人たちにも知ってほしいと願うのは、沖縄問題は実は日本全体の問題だからである。沖縄の米軍基地は、日本政府が米政府との間で結んだ安保条約に基づいて置かれている。この条約の目的は、日本国民の安全と平和を守ることにある。国民全てがこのことを認識してそれ相応の負担をするのは当然である。基地の負担を沖縄だけに過重に負わせるのは不公平であり差別的処遇であり日本国憲法の平等にも反する。自分たちの平和や安全を弱い人々の犠牲によって図ろうとする生き方は理解に苦しむ。67年間も基地を沖縄に押しつける形だが、政治の場でこの問題を解決しようともしない。この政府の態度を本土の有権者が黙認しているのは、日本人の陰湿な差別と偏見の問題の根深さがある。いずれ本土の人たちは小指の痛さを全身の痛さとして実感するだろう。
安保条約の問題は重大である。この問題の処方を誤ると民主政治の崩壊にもつながりかねない。日本の民主主義のあり方が問われているのである。民主主義政治の多数決原理は少数派の意見も尊重することを前提にして成り立っている。国会で圧倒的多数を占めるのは、本土選出の議員たちである。この多数派が、安保条約と沖縄の米軍基地問題を自分のこととして取り組まない限り問題は解決しないのである。本土のマス・コミの活動にもかかっている。その気になりさえすれば、沖縄問題の解決も日本の政治を変えることも、一般民衆の政治不信も解決できるのである。
明治政府が琉球処分で国王を東京へ連れ去ってから約130年間、沖縄は本土から差別され犠牲にされて苦難の連続だが今度また日本政府は辺野古に米軍基地を造ろうとしている。本土の人たちはまだ黙認するのか。
「基地を持つ国は基地で亡び、核を持つ国は核で亡ぶ」
沖縄県民は国民的十字架を担って来た。
日本国民としての平等の扱いを要求する。

※参考文献
大田昌秀著「沖縄 平和の礎」「沖縄のこころ」「沖縄は主張する」「拒絶する沖縄」「醜い日本人」。
大江健三郎著「沖縄ノート」。
阿波根昌鴻著「命こそ宝」。
小林直樹著「憲法第九条」。
山住正巳著「子どもの歌を語る」。
堀内敬三・井上武士著「日本唱歌集」。

平和への祈りメッセージ

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