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エッセイ

戦火の用心

2005年2月17日 宮古新報社「島の彩」掲載より

「命を奪う戦争の武器を溶かし、命を養う農業の鋤や鍬につくりかえて、土を耕し平和に暮しましょう。国は国に武器を使わず彼らはもはや戦いを学ばない」という意味の教えが旧約聖書のイザヤ書、第二章にある。
戦後六十年経った今、戦争の残酷さを書くのは辛いが避けては通れない。宮古のあの戦争を忘れてはならない。命を大事に、明るく希望を抱き生きてこそ人は幸福になれると考えるからである。
幼い頃、私は畑の多い宮古の七原部落に住んでいた。馬は鋤を引き人は鍬で畑を耕した。木も多く緑豊かで平和な七原だったが、部落の全ては破壊され、軍事化されて、日本海軍飛行場にされた。
この飛行場にアメリカの戦闘機が襲い掛かった。機銃掃射、爆弾投下。その爆発で飛行場はでこぼこにされ日本軍の飛行機が離着陸できなくされた。宮古にはあと一つ、日本陸軍飛行場があった。この飛行場にも米軍機が爆弾投下、下を飛ぶ味方の米軍機に当たり一瞬に飛び散った。このように軍事飛行場は敵味方に関係なく危険である。基地のある宮古の上空では激しい空中戦さえもあった。
地盛部落の聖なるウタキに隠れて日本海軍陣地があった。機関砲や大砲を備えていた。そこから射撃される大砲は私の体を揺るがした。米軍機は弾丸に当たり、回転しながら南の海に落ちた。グラマンの機銃掃射の弾丸が、私の家の庭に突き刺さりバウンドして台所の皿を粉砕した。馬小屋のそばに爆弾が落ちて爆発。宙に浮き地に叩き付けられた私たち。
恩師である大山高春先生の家は、この陣地の隣にあった。更に恐怖であったに違いない。米軍はこの基地も集中攻撃の標的にしたのだ。
私たちが移転した土地は、鏡原小学校の東隣であった。学校は、陸軍病院にされ、負傷兵が大勢いた。片手の兵隊、両足のない兵隊たちである。
この病院では兵隊が毎日、死んだ。死体は運動場の台の上に安置され、陸軍のトラックが運んで行く。松の木の枝に紐を掛け首を吊って自殺する兵隊もいた。
この病院の満員の防空壕に爆弾が命中。煙る現場。硫黄の匂い。壕にいた人の細切れの肉。木に下がり地に糸を引く人の内臓。木の根本に静止する人の足首。
福嶺病院の医者は軍医にされ、この満員の防空壕に入れず、校舎の床下に逃げ、そこで助かった。と友の福嶺君はお父さんのことを話してくれた。
艦砲射撃。裏山へ逃げた。海を見た。米軍艦が黒々と群れ、オレンジ色の弾丸をクシの歯のように並べ、宮古島へ向けて射撃。私の家族三人は岩の下のくぼみにもぐった。私は言った。
「明日になるとここで死んでいるのか」
戦争になる前の宮古島は静かで平和な島だった。が日本兵が上陸し、隊列を成して私の家の前の道を延々と通った。私たちはこの道端に長い台を置き、その上に一口サイズに割った黒砂糖を皿にやま盛りにし、お茶を注いだ茶碗を並べ、ヤカンを置いて兵隊たちを歓迎した。日本の軍隊は宮古島を守るものと真面目に考えていたのである。
戦争では住民も兵隊も食べ物を失う。輸送船が張り水港に着いたとたんに爆撃され何日も空に黒煙を噴き上げて燃え続けた。兵隊は農民の馬さえも許可なく夜中に連れ出し、焼いて食べた。友の秀和君は馬の手綱を自分の体に巻き付けて馬と一緒に馬小屋で寝たのである。馬は働く宝なのだ。
宮古島攻撃の原因は、日本軍が宮古に軍事飛行場や基地を置いたからである。
今また、宮古の下地島飛行場が、軍事化されつつある。軍事化は戦争への道だ。世界の人々と共に私たちは平和を希望し平和に暮すのだ。
人の心が温かい宮古島。神に祈るアララガマの島。ワイドーと助け合う。青い空に青い海。星が手につかめそうな島。空気が美味しい島。常緑樹が多い宮古島。年中、緑の島。この緑は永遠を表し永遠の命永遠の愛を象徴する。愛に感謝する。ありがとう。

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