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エッセイ

記憶から希望を

2010年5月7日 うらそえ文藝誌 掲載より

過去は先祖、未来は子孫である。
私が生まれ育った宮古島の七原部落は、平坦な土地で畑が多く野菜の収穫も多かった。 家の周りには、蜜柑の木やガジマルの木やデイゴの木が茂り、蝶が舞い、鳥が歌った。私は庭の桃の木の実をもぎ取っては食べた。先祖が残してくれた平和な島である。
しかし「戦争に備える」と軍が命令。七原部落は潰され海軍飛行場にされた。移転先は小学校の隣の狭い土地で、近くの御獄には海軍の大砲や機関砲が据付けられた。全国から兵士三万人が島に来て駐屯した。
十・十空襲から敗戦まで宮古島に飛来した米軍爆撃機数は五二五〇機。機銃掃射。爆弾投下。艦砲射撃。満員の防空壕に爆弾が命中。悲惨な現場。飛び散る血、元に戻せない肉片を目撃した。私は魂に焼き印を押された。基地があるからこんなことになるのだ。
日本は廃藩置県で「琉球王国」を「沖縄県」と改名し、軍隊を置くと宣言した。琉球は「危険な火種になる」と反対したが、「どこに軍隊を置くかは政府が決めることで住民に拒む権利はない」と強行した。明治から昭和まで軍事基地が増え続けた沖縄に米軍が上陸。酷い地上戦となり多くの住民が亡くなった。前島だけは無傷だった。島長や住民が日本軍駐屯を断固拒否したからである。
日清戦争・日露戦争・日中戦争と、明治から敗戦までの広島は軍都だった。大陸への派兵拠点も広島の宇品港であった。私はたびたび広島を訪れ、原爆ドームや資料館、爆心地、戦跡碑を見て回る。広島城跡には、大本営跡(明治天皇行在所)の碑がある。建物は原爆で破壊され存在しないが、基礎石は巨大恐竜の白骨さながら残っている。奇襲狂い加害の根源の残骸である。加害と被害の記憶が子孫に伝えられるのなら、希望を生む母となろう。

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